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現代宇宙物理を通して広がる「人間原理」と、科学者としての姿勢

数理科学の今月号『物理と方程式』をパラパラとめくっていたら、郡和範さんの「相対性理論と方程式」という記事の最後の方に、人間原理について述べた部分がありました。

宇宙の創生に関して、現代物理学的にはたくさんの宇宙が作られうるという見方がされていますが、物理学者たちは、その生成されうる宇宙のどれが誕生したとしても、最終的には現在の物理法則を持った宇宙が生じることを説明していこうという努力を続けています。一方で、それとは全く違う立場があります。

それが人間原理と呼ばれるもので、もとの意味はデカルトが提唱した「我思う、故に我あり」です。宇宙と物理の研究が進むにつれ、この宇宙のすべての法則を一本の式で書き表わす試みは難しいことであることがわかり、いくつかの(10以上の)パラメータの値の絶妙なバランスによってこの宇宙の様相が決まっていることが理解できるようになりました。このようにある意味奇跡とも呼べる好条件の中に私達は生活しているわけですが、創造神の存在を容認することなく、また宇宙は必然的にそのようになるということの証明をせずにこの事実を容認する方法が、「結果として人間(のような知的生命体)が生まれるような宇宙となっているので、そのようなパラメータであるのだ」と考えることです。これが人間原理です。

Wikipediaなどを見てみると、この人間原理も適用範囲で分類して考えることもできるようで、今回のこの記事の中で挙げられているのは強い人間原理であると思います。すなわち、問「なぜ宇宙の法則は偶然人間に都合がよくできているのか」に対して、「宇宙の法則がこうであるので、この問を問いかける人間が生まれてきた」と答える原理です。「なぜ地球は人間にとって住みやすく、快適な環境なのか?」という問いに対しては、「このような環境であったからこそ人間のようにこのような問を発することのできる知的生命体が存在できたのだ」と答えます。

個人的な話をすれば、僕自身は今までこのような考えをしていたことがよくあったと思います。進化論と自然淘汰への”信仰”とも言えるかもしれません。今いる生物はすべてこれまで生き残ってきたものであるのだから、環境に適応したデザインをしている、というように。しかし、郡さんの述べておられるように、このような説明で満足していては、今後の科学の発展に関して言えば大変な損失かもしれません。

「酸素の多い地球型の惑星は実は稀であるという帰結を導くに至った惑星科学の進展や、酸素の多い星で適者生存の原理で酸素を使うよう進化してきた地球の生物を、進化論を使って理解するという学問の正しい方向性の研究はずっと遅れてしまうかもしれないからである。人間原理による説明は、最初から科学の問題に適用するのではなく、最後に撮っておくべきものなのである。」

最終的に物理学者たちがこの問題に対してどのような結論を提出していくのかはわかりませんが、僕個人としては、初めからわかった気になってしまうこの人間原理というものを出すことなく、最後まで自分の力で説明していく姿勢というものを学んでいきたいと思いました。