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自分は人と変わっていると思っている人に向けて

先日、ポスター形式の発表会があり、自分は発表しなかったのですが、色々と話を聞き、質問をして、その後に懇親会があったのでそれにも参加しました。参加していた他の研究室とは普段のつながりもあまりないので、必然僕の所属する研究室の方々は近いところに固まって話していました。博士過程の先輩が二人と修士1年の先輩一人と僕の4人でいたのですが、そのとき博士過程の先輩からもらったアドバイスがかなり心に残ったので、今後の自分の生き方も含めて、参考になる人がいればと思い、自分なりの解釈をはさみながらそのことについて述べます。

先輩からは

「これから暇できるよね?君はもっと勉強をしたほうがいいよ。君は思ったこと、感じたことをすぐに口にするようなところがあるから、勉強することが嫌いでなければ、もっと勉強した方がいい。時間が取れるわけだから、何を研究しようかといろいろするよりかは、じっくり腰を据えて勉強した方がいいと思うよ。そもそも知識がなかったら、学者とは言えないだろうからね。」

のように言われました。文におこしてみるとかなりきついですが、おそらく僕に対してずっと思っていたことだと思うので、ありがたいアドバイスです。

そして、そのとおりだとも思いました。この1年間を振り返ってみると、研究で何をしようかとか、そういったことばかりに気を取られていて、腰を据えて勉強をする機会が少なかった、いや、圧倒的に足りなかったように思います。輪講で扱ったテキストでさえ、自分の割り当てになっている範囲以外について、後からじっくり読みなおすことはありませんでした。輪講のその時間だけでは当然理解できないことも多いわけで、逆に理解したと思っていても、実は勘違いしていたことが多かったのではないかと思います。これは本当に反省すべき点です。また、4年の後期には講義を受けていませんでした。なぜそうしたのか、今となっては不思議なところですが、できるだけ長い時間、研究のことを考えたいと思ったのでしょうか。

さて、先輩がなぜそのように思ったのかといえば、きちんと述べてくださっているように、「思ったことをすぐに口にするところがあるから」です。確かに僕にはその傾向が強いように思われます。そしてそれは研究室での輪講やセミナーなどでも同様でした。そこで僕の言っていることの筋道が立っていない、考えの飛躍がある、もしくは間違いがあることを多く感じられたのだと思います。一般的に言って、最終的に得られた結論が誤ったものとなる場合には、その結論に至るまでに使われた情報・知識そのものに誤りがある場合と、論理構造に問題がある場合の二つの場合が考えられます。仮に僕の思考の方法が論理的で、間違いのないものだったとしても、思考に使われる知識に間違いや抜けがあったとしたら、最終的に得られた考えは、間違ったものになることは明らかです。

ここで題名に戻るわけですが、僕は、人から「変わっている」と評価されることが多かったように思います。それは何か事象を見たときの反応であったり、考え方、捉え方の面で言われることが多いです。そして、そう思われていることの一端には、思ったことをすぐに口にする気質があるように思うのです。人から「変わっている」と思われる意見や考えを提出する人には、実際には二つの種類があると考えています。前者は、いわゆる天才とも呼ばれる人たちで、研究における斬新なアイデアや成果、社会に対するイノベーションを起こすような人たちです。これらの人は他の人とは違う情報を多く仕入れ、それをうまく組み合わせたために、他の人が思いもつかなかった新たな考えを生み出すことができたのです。そして、その思考の過程に用いた情報自体に信憑性があり、その思考の論理の道筋自体に誤りがなければ、後からでもその思考の道筋を人に説明することができ、そのときは変なことを主張しているように思われるかもしれませんが、いつか納得させることができます。科学者の研究と論文にもそういった点があると思いますし、文科系の研究においても、このように説明された論文は素晴らしいものであると思います。一方で後者は、思考の過程に用いられた材料となる情報が人と違うために、もしくは論理としての矛盾があるために、社会の意見とは異なる考えを導き出し、そしてそれを口に出すことによってまわりからそう評価されるというものです。僕を含め、自分は変わっていると思っている人の大半は後者だと思います。そして、普通の人はすべてのことに対して正しい知識を持っているわけではないので、勘違いや情報の誤りは多く存在しているはずであり、逆に専門分野の知識などに関して言えば、世の中の大半の人の知らない情報を持っていることもあるでしょう。そうするとその知識の違いをもったそれぞれの人からは、異なった考えが導き出されたとしても、何も問題はありません。まわりから「変わっている」と思われる人は、周囲の人間との情報(これは科学など確かめられる知識を含め、これまでの経験を含んでもいいと思います)の差があるために、まわりがすぐに理解できない結論を導き出し、そしてそれを口にする人なのだと思います。そしていい意味で「変わっている」人であることは、周囲の人間よりも正確な情報と、希少な経験を材料に論理的に矛盾なく組み立てられる人であり、そうでない場合にはどこかに抜けがあると見てもいいのかもしれません。

さて、僕が人に変わっていると思われるのはなぜでしょうか。確かに、人ととは違うことを勉強したり、経験したりはしているはずですが、そこまで大差あるようには思われません。そこで重要な点は、このような評価は口にした段階でまわりからなされるものだと言うことです。ということは、他の人はみんな実は、僕の思いつかないようなことを考えていて、しかしそれを口に出すことはないので、他の人には分からないだけなのかもしれません。だとしたらそれはもったいない気もしますが、しかしそれらの人たちは自分の経験や知識とまわりの人間のそれとの間のギャップを感じているがために、あえては口にしていないだけかもしれません。それはとても賢いことですし、まわりのことをよく見れる人である証拠です。そう考えると僕に足りないのは「空気を読む」こととも言い換えられるでしょう。思いやり、とも言えるかもしれません。少くとも、何か考えがあったとしても、実際それは人に論理的に説明出来る種類のものなのか、もしくはまわりの人間の経験や知識に対してギャップのあるものではないのか、発言の前に一度考えることは重要であるように思います。

それで、今後のことについて考えるときに僕に必要なのは、正確な知識を取り入れることと、日常の経験を整理してあたまにとどめておくこと、それから考えを発言する際には、それが確かに説明できるものであるか考えることを意識することだと思います。そして、特に研究の上で重要なのは、いま正しいと思われている科学の知識を、しっかり自分のものにしておくことです。ここから大きく外れたものは、自分の個人の思い込みにしか過ぎず、研究とは呼べないでしょう。自分の卒論をみて、僕ははっきり糞だったと言います。この部分が圧倒的に足りないからです。そして修士論文をまとめるには2年ほど時間があります。少しでもいい研究が出来るように、また世の中にとっていい意見をもつことのできる人間になるために、精進していきたいと思います。